マスコミ様がたくさん事実を曲げてきたので、「人々の真実離れ」が起きた件
この記事では、マスメディアはがんばってまーすて漢字で書いてるけど、
人々に、ニュースが事実かどうかはどうでもいい。という考え、いわゆる脱・真実(Post-Truth)させたのは、他でもないマスメディアなんだよ。というお話。
wikipediaでは、 このページで脱・真実の話に触れてる。
Step1.事実をねじ曲げてきた報道スタイル
上の記事を読んでもらえば分かるんだけど。
事実を曲げない報道を 目指して
それでもなお、マスメディアはなんとか踏みとどまろうとしてきました。日本新聞協会の新聞倫理綱領には、「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」という一文があります。・・・(以下略)
とある時点でメディアは「事実を曲げて報道してきた」ことにほかならない。そして、
曲げられた事実にしか触れることの出来なかった我々には、真実に触れられる可能性があるネットがより重要な存在になっていくのも無理はないかと考えられる。ネット以前の時代では極めて真実にたどり着くことが難しかった真実に。
最近の例で言えば、電通の残業問題もあれば、一部芸能人のスキャンダルも、さらにはマスメディア社員の不祥事なんてのも、ネット以外の場所では触れられることも無いだろうし、あっという間に最初から無かったことにされて終わりだっただろう。
そういった意味では、事実を曲げない報道を目指すなんてとてもとてもヌルイ話で、どうして週刊文春が「文春砲」とネーミングされ、人々の期待を集めるかもう一度考え直した方がいいと思う。
Step2."良質な情報"を生み出そうともしなくなったメディア
良質な情報が駆逐される?
ネットの時代になって、マスメディアのジャーナリズムは危機を迎えます。人々は情報入手の手段としてネットにますます依存するようになると同時に、ネット上で自分の意見を自由に述べるようになりました。批判の矛先は政治エリートだけではなく、マスメディアにも向かうようになりました。また、政治問題や社会問題に関しては、自分の意見と似通ったネット上の主張にアクセスし、異なる意見に接する機会が減るという現象が目立つようになりました。これは最近、「エコーチェンバー」現象と呼ばれています。その結果、世論の分極化が進むようになったのです。
自らが、「政治の監視役」となると同じくネットもまた、「社会の監視者」となっているという事実。世論調査や聞き取り調査では出ることのない「生の声」でもある。良質な情報は駆逐されることはない。埋もれて見えづらくなるだけだ。そして、本当に良質な情報であれば掘り出されてくるはずだ。駆逐されたと思っている「良質な情報」。それ、本当に良質ですか?
そして、クオリティが低い番組や記事はすぐに批判、炎上の対象となる。つまり、「○○の番組はクソだ」という”情報”が溢れるわけ。ということは、クソな番組を作る側に責任は全くないのだろうか?良質な情報を作れない側に責任はないだろうか?
Step3.そして人々は”真実”を捨てた
ねじ曲げた真実。
クソな情報しか生み出せなくなったメディア。
ネットにある真実と多数のガラクタ。
こうして、人々は、マスメディアを信用しなくなり、ネットを信用した。ガラクタの中にある真実=操作されていないピュアな情報を捜し求めた。情報の真贋は重要ではなく、信じたいものを信じる。ネット上にはとても数多くの情報が転がっていて真贋を確かめている暇も、どのように真贋を見極めるかも分からないから。
このようにして、脱・真実(Post-Truth)の完成。
前騒がれてたWELQの話も、信じたい情報を信じているだけということ。
マスコミの操作された情報を逃れてネットに来たけれど、ネットでもまたウソの情報に自らが操作される、というのはある意味皮肉ではあるよね。
こんな話もあるけれど、ウソを100%見抜くのではなく、適度に疑いの心を持つことは大事だよ。
ではでは。